もじゃもじゃな人の雑記

当方は高専生でしたが今は腐れ大学生.今後は日記および備忘録として動きます.

【壁打ち】結界師ってマジでいい作品だと数年越しに確認した

今日も今日とて壁打ち。

タイトルにある通り、結界師という漫画について。

shogakukan-comic.jp

自分はアプリのサンデーうぇぶりで読んでいたんだが、完全版がちょっと前に出ていたらしい。


自分と結界師の出会いは多分小学校の頃だったと思う。
家族がコミックを購読していて家にあったので、とりあえず読んでいた。

しかし、当時は幼かったこともあり、かなり適当に読んでいた。
それもあってか、特に最終盤の展開はいまいち理解できておらず、バトルシーン以外は楽しめなかった記憶がある。

ところが、こうして時間がたってから読み返してみた結果、当時よりずっと大好きな作品になった。


そう感じるようになったのは、きっと登場人物に共感できるケースが格段に増えたからだと思う。

特に共感できると感じたのは、主人公の兄の墨村正守だ。

正守は弟(主人公)に対してコンプレックスを持っている。なぜなら、正守が長兄にも関わらず、彼の育った墨村家の当主は弟に決まっているからだ。それも、能力とかじゃなく、生まれながらに弟が受けた「神の信託」的な、理解の及ばないものが根拠だという。ふざけるな! と言ってもおかしくない境遇だ。

そんな彼は、作中では自分の価値を示そうと色々やる。陰で弟を助けたり、特に最終盤は、自分の実力が足りないことを自覚しつつも何か為そうと奮闘する。

この情けなくも必死なさまに、僕は改めて胸を打たれたのだ。

その他にも語りたい登場人物は多くいる。
結界師はそれほどまでに「応援したくなる登場人物」が多く登場する作品なのだ。


また、結界師は近年見た作品の中で(そんなに数多くもないが)悪役が気に入っている作品の一つでもある。
これの他には、「ヴィジランテ-僕のヒーローアカデミアILLEGALS-」なんかも素敵な悪役が出てくる。

僕の中で魅力的な悪役は、動機が理解できる(もし同じ状況に置かれたとき同じ行動をとるかもと思える)ことと、その動機に(僕目線で)空しさや悲しさがあること、の二つを満たすことが多いと思っている。

結界師の悪役は(詳しく説明すると盛大なネタバレのため詳細は割愛するが)、「気持ちは分かるけど、そっちを選んじゃダメじゃんか、気持ちは分かるけどさ……」と思わせる存在だった。

また、その動機を読者に伝えるシーンも良かった。
たった一つのセリフだけで、回想を使うこともなく過去を想起させる、そういうシーンだった。

それまでは考えがまるで読めない、人間らしくない敵だったのが、一つのセリフがあるだけで途端に近しい存在に思えるようになる、という衝撃的で貴重な体験を、そのシーンは与えてくれた。
その点においても、再読して良かったと思えた。


ネタバレなしだと、とりあえずこんなところか。

ネタバレありだとこれまた書くのに時間がかかりそうで面倒なので、ひとまずこれくらいにしておきたい。

とかくいい作品なので、ぜひ読んでみてもらいたい。ダークファンタジー好きへ特にオススメする。

【壁打ち】Sleep Walking Orchestraなる神曲をちょっとだけ考える

人と話したいが近頃その機会が全くなかったので、壁打ちをしようと思って筆を取っている。
まあ僕の言う「話したい」ってのは「自分の思想を誰かに聞いてもらってなるほどとか言われたい」と完全に同義であって、本当にその欲求が満たせる機会というのはほとんどない。 だから、話せる人を捕まえることすら面倒がる人間にとっては、結局こういう壁打ちが手っ取り早いんだと思う。

……よく考えたら、研究室でゼミやってる時間はその欲求解消に役立っていたのかもしれない。どうりで毎週ゼミが楽しみだったはずだ。


さて、今日は知らんうちに出ていたBUMP OF CHICKENの曲、Sleep Walking Orchestraについて。

www.youtube.com

これはアニメ「ダンジョン飯」のオープニングテーマになっている曲で、アニメを通じて知って以来、非常に気に入っている。

今のところ特に気に入っているのは歌詞だ。
相変わらず、「理解できないようでギリギリ理解できる」歌詞だなと思う(僕の理解力に対して)。このギリギリ感があるから、毎度新しい曲が出るたびに謎解きのようなワクワク感を持って曲に向き合うことができ、どんどん好きになっていくのだ。

また、自分の解釈ではあるが曲のテーマ(メッセージ)もいいと思う。
1番サビの歌詞は次のようになっている。

どうして体は生きたがるの 心に何を求めているの
肺が吸い込んだ 続きの世界 何度でも吐いた 命の証
さあ今 鍵が廻る音 探し物が囁くよ
赤い血が巡る その全てで 見えない糸を手繰り寄せて

冒頭の「どうして体は生きたがるの 心に何を求めているの」というフレーズは、「内心ではもはや生きたいと思っていないのに、どうして体はまだ生きたがるの? 私を生かして、この先どうしろと言うの?」と解釈できると思っていて、これこそが、曲が我々に投げかける命題なんだろうと考えている。
前半の「もはや生きたくないのに」という前提はあまり一般的でないかもしれないが、後半の「この先どうしろと言うのか?」という疑問や不安は、きっと多くの人が経験してきたはず。

それに対して、BUMPの作詞作曲担当、藤原基央さんは「さあ今 鍵が回る音 探し物が囁くよ」と歌う。
これは、「探し物」の存在、すなわち目的意識を持つことこそが対処方法だと伝えているんだと思う。

そして「探し物」へ至るには「見えない糸を手繰り寄せる」しかない。
そのためにも、「赤い血が巡る」君自身の体が必要なんだと。


そういうわけで、乱暴に言うと

生きたくないだぁ⁉
そんなこと言ったところで、呼吸も腹が空くのも止められないぞ⁉
もし生きる意味が分かんなくなったとしても、今からでもなんかやりたいこと見つければいいだろうが‼
あと、どうせ勝手に生きやがるんだし、やりたいこと見つけた後は酷使するかもだし、ちゃんと体の健康は保っといた方がいいぞ

というメッセージなんだと、僕は勝手に解釈している(個人の意見)。
なお、体の健康云々は、これが「ダンジョン飯」というきちんと食べることの大切さを伝える作品のテーマ曲だから、という色眼鏡が入っている。



さてさて、
流れで何度か出した「ダンジョン飯」という作品だが、アニメも見ているし原作漫画もうっかり揃えてしまうくらいハマってしまっている。

delicious-in-dungeon.com

短く言うと、ダンジョンの奥深くで妹を食われてしまった主人公が、焦りつつもちゃんとした飯を食べながら、妹を取り戻そうと冒険する物語。

しっかりとした世界観の下で、人間味あふれる(つまりクセありまくりの)登場人物たちが有機的に絡んでいく様は、一見の価値あり!

という宣伝をしたところで、今日はこの辺で。

People In The Boxの新譜を考えるだけ① 230603

ピープル新譜の歌詞考えるぞ

今回からピープルの新譜:Camera Obscuraの歌詞を考えていきたいと思います。
考えるだけです。
それでも楽しいからいいのです。


注意事項

  • 歌詞は(記事執筆段階では)波多野さんによって公開されています(該当ツイートへのリンク)。
    よって、歌詞の確認は基本的にリンク先を見るか、お手持ちの音源に付いているものを確認いただけたらと思います。
    この記事に歌詞を大量に書くことはいたしませんので、悪しからず。

  • 今回の考察は「歌詞のフレーズは全てその表現でなくてはならない理由がある」という前提に立っています。

  • この記事は「歌詞の各フレーズに対する考察」→「自信のある考察のまとめ」→「解釈」の順で進みます。 最初の各フレーズ考察が書き散らしているだけな上に長いので、解釈だけ見たい方は下の方まで飛ばしてください。

  • 自分が書いていて気持ちのいい表現のために一部断定的な文末表現になることがありますが、全ての文章の末尾には(※個人的意見です)が付いていると思ってください。


ではでは、まずはCamera Obscuraの開幕を告げる曲から。

1. DPPLGNGR

曲構成を雑に定義しておく

これは曲の部分部分に名前を付けて、後で言及しやすくする目的です。
自分はコード進行が全然分からない人間なので歌メロの感じで構成を書き出すと、大体次のような構成かと思います:

イントロ → Aメロ → Bメロ → Cメロ → 間奏(Cメロインスト) → Bメロ → Cメロ → アウトロ(Bメロ+Cメロのインスト)

これを踏まえて、以降は歌詞の表現を拾いながらふわふわと考えていきます。


イントロ

最初に聴こえる効果音

これは、部屋が開け放たれる音か?

部屋というと、やはりタイトルのカメラ・オブスキュラ(最初期のカメラ:暗い部屋に小さな穴を開けてピンホール現象を起こす)を想起せざるを得ない。
舞台は暗い部屋と、その外。そんな感じだろうかとぼんやり想像する。

だとしたら、語り手はどの位置から部屋を見ているのか。部屋の内か外か。

答えを明らかにする間も無く、次々と不穏な音が重なっていき、ヴォーカルの声がついに姿を現す。


Aメロ

「気にしてしまうよ/なぜあの視線を」

ざっと確認した感じだと、「視線」という言葉はこのアルバムの各所に現れる。
特に、明らかにDPPLGNGRと関係がありますという仕掛けの施された曲、M9のカセットテープにも「視線」が登場することは、この単語の重要さを物語っていると思う。

ただし、この表現がアルバムの根幹に関わるであろうことが予想できるだけに、この場ではあまり深く触れないことにしたい。

ただ分かっているのは、語り手が明確に他者の目を意識していること。
すなわち、この時点で「語り手」と「それ以外」という二つの存在が確認できることだ。


「守ってくれるの/巨大な構造が」

どう考えてもなんかいる。背後に、後ろ楯のような何かが。
しかも「構造」の部分を、波多野氏はあえて「かぞく」と歌い上げており、親密さを覗かせる。

背後から守ってくれていて、風をふかしてくれる、親しみのある何か。
表現が出てくるタイミングの後先からして、「視線」を送ってくる存在とは別物だろうと予想がつく。

この正体もまだよくわからないので置いておきたい。

しかし、「家族」に対して「構造」という言葉を当てるかね、普通。ハリーポッターの世界観なら絶対に「愛」なのだろうが。

「風が背中を叩いた」

上に続く一節である。

これは恐らく「巨大な構造」が何かを唆していることを表すと思うが、その上で「風」という表現に注目したい。
ただ唆しているのであれば、もっと物質的で想像しやすいような表現を使って「手が背中を押した」みたいなのでもいいはずだ。
だが波多野氏は「風」という表現を使った。「風」は「手」なんかと比べて形を持たない曖昧な存在だが、「どこからか吹いてきている」という発生源へと考えを及ばせる効果を持つと考える。しかも、その源とは距離がありそうに感じる。

したがって、語り手は後ろ盾から遠く離れたところにいる、と読むことができるだろう。

ここから、曲調は一変する。神聖にも感じた空気感がダークなものへと移り変わる。


Bメロ(1回目)

「おなじみのトラウマ、平気さ」

トラウマは過去の経験に痰を発する心的外傷である。
詰まるところ、語り手には何かしらの忘れ難い過去があり、現在それを刺激されているらしい。
しかも、それは最早「おなじみの」ことになっている。

だが、それを語り手は「平気」だと言った。

「敵も味方もいない、そんな世界はない」

平気だと言い張る理由をこの一節に委ねるとしたら、この表現は「世界には敵もいるけど味方だっている、だからトラウマがあっても大丈夫」みたいに読めるかもしれない。
そうなると、語り手は敵に関係するトラウマを持っており、一方で味方のおかげでそのトラウマを過剰に気にせずいられている、と解釈することができるだろう。


「ぼくはツキノワグマ(Bメロ)

出ました。本アルバムきっての存在感のある名詞、「ツキノワグマ

とりあえず、「ぼく」という一人称が出てきたので、これからは語り手のことを「彼」とも呼称することにしよう。

さて、彼はここで自らを獣に例えたわけだが、湧き出る疑問として、

  • なぜ獣なのか、強い存在なら銃やナイフなどではいけないか
  • なぜツキノワグマ(クマ)なのか、強そうな動物ならライオンとかではだめか

あたりが存在する。

色々考えたが、まず前者について、波多野氏は語り手に宿った「野生」を表したかったと思っている。
「野生」はこのアルバムの他の曲にも登場するし、Talky Organsには類似の単語として「野蛮」をタイトルに含む曲が存在する。
すなわち、自分は今、理性を失ってしまったことを言いたいのだと考える。
当然、人としての理性がない状態で、銃やナイフなんていう人が作ったお上品な武器を名乗ることはできない。

次になぜクマなのかだが、比較的に身近な野生動物の中でありなおかつ「食べるために人を襲う」という印象が存在しており、すなわち積極的に人を害そうとする生物であることが重要なのではないか。
そうなると、「彼は今、好んで人を襲う獣になってしまったと思っている」という解釈をすることも自然だろう。

ちなみに、なぜヒグマじゃないのかも少し考えたが、ツキノワグマの方が語呂がいいからかなという認識で手打ちとしている。

「山を越え、森を抜け」

先ほど自らをツキノワグマに例えたからか、獣目線の描写となっている。
しかもその後には「景色を引き裂く」とあり、彼が何かしら人を害したことが示唆されている。


Cメロ(1回目)

「ここはどこだろう」

ここで曲は展開する。

空間を塗りつぶすような激情は鳴りを潜め、代わりに澄んだピアノが印象的に響く。 それと同時に伝えられるのは、彼の困惑だ。

上で「巨大な構造(家族)」と遠く離れた場所にいるのでは」と考えた。
その思考の上に立つと、彼はこの段階ではどこだか分からない場所にいるらしい。

分からない、というよりは「忘れてしまった」という可能性ももちろんある。

「帰りたいよ/もっといい世界へ」

彼は今いる場所から帰りたいと望む。その帰る先は、もっといい世界だからと。

「トラウマ」と向き合うことが「おなじみ」のこととなっていることからも、現在の彼を取り巻く環境が良くないものであったことは間違いない。
だから、少しでもましな状況になることを切に望んでいるらしい。

「帰りたい」という表現も注目できる。
つまり、語り手は帰るべき場所から離れ、意に沿わぬことをし続けているということが示唆されている。

一方で、「帰りたい」というフレーズはリフレインしながら徐々に減衰していっており、それが叶ったと印象は薄く感じる。


Bメロ(2回目)

Cメロの流れを汲んだ間奏があり、それを突き破るような轟音とともに再びBメロが始まる。

「いわくつきのスティグマ

スティグマという言葉を調べると、差別や偏見と出てくる。
つまり、彼は前々からずっと周囲の人から何か偏見を押し付けられているのではないかと予想できる。

だが、これについても彼は「平気」だと言う。その理由は……

「まるでビデオゲーム 慣れ親しんだ世界だな」

ビデオゲームのように慣れ親しんだ世界だから、偏見があっても平気だ、とこのように読むことができるだろう。

ここの、ビデオゲームのように慣れ親しんだ世界とはどういうことだろうか。

ゲームというものは、プレイヤーが与えられた選択肢から判断し結果を得るという体験の連続を楽しむものである。この点で「世界観」を我々と共有する他の媒体である小説や映画とは差異がある。
さらに言うと、ゲームにはリセットが存在し、「選択肢による結果の違いを見るため、何度も繰り返すことがある」のも一考の余地を持つ。

これらのことから、私は「ゲームのように慣れ親しんだ世界」とは「何度も何度も遭遇してきた場面」を指しているのではないかと考えている。

上の「スティグマ」と合わせて想像すると、彼は周囲から嫌なレッテルを貼られたことが何度もあり、その度に何か行動してきたのではないかと思う。

「敵も味方もいなければよかった」

これは最初のBメロと同様に「おなじみのトラウマ」に呼応する一節である。しかし、その様相は異なる。

1回目では敵も味方も存在すると歌っており、私は「味方がいるからトラウマがあっても平気」という意味にとっていた。
しかし、この一節では味方の存在すら歓迎しないことを述べている。

これは、Cメロと間奏を経由する間に語り手に何か起きて、考えが変わったのかなと思っている。
つまり、最初のBメロと2回目との間では時間が経過していると考えている。

味方もいらないと考えるようになったことから、味方と思っていた人に裏切られたとか、味方がこんなことを頼むのがそもそもいけないんだとか思うようになったのかもしれない。

「汚れた両手は切り離して 棄てて おしまい」

「棄ててしまいなさい」なのか、それとも「棄てたら、それでお仕舞い」なのか。意味深な空白もあるし、どちらもあるのかもしれない。

次の表現も合わせて、語り手が何かしらしでかした事実をなくしてしまおう、ということだと考えている。

「抹消されるだろう 記録は/弾丸を込め、花を踏み、引き裂く景色は」

記録の消去というと、「ビデオゲーム」におけるセーブデータの消去を想起する。
また、「弾丸を込め、〜」も「抹消されるだろう」にかかっていると仮定するなら、人を害したときの記憶こそが抹消されるものなのではないかと考えられる。

「弾丸を込め」は明らかに人を描写している。だが、この描写は1回目のBメロにはなかった。
この段階で、語り手は自らの行為から目を逸らすのをやめ、現実を受け入れていると見れる。


Cメロ(2回目)

「また会えたね/別人だよ」

これが一番分からないかもしれない。
とりあえず、「また会えたね」と「別人だよ」では声色が違っているので、これらのセリフは別々の人物が発していると考えられ、語り手以外に誰かしらが現れたことが分かる。
それから、「また会えたね」と言った方は知り合いだと思って話しかけているが、言われた方はそれを否定している。

あと興味深いのは、この「また会えたね」からは冒頭〜Aメロで聞いたフレーズに戻っていることであり、何かしらの関係が示唆されることである。
場面が変わったのかとも思ったが、歌詞を見ると「また会えたね」はその前のフレーズの直後にあり「別人だよ」は1行空いていることから、それほど大きな変化があったことは考えにくい(大きな変化だったら「また会えたね」の前にも空白行を入れるだろう)。
だから、時間軸的なものがAメロのそれと一致しているのかなと考えている。


アウトロ

BメロとCメロが合わさったようなフレーズを奏でてフィナーレへと向かう。
なんとなく、BやCで語られた出来事が今後も繰り返されることが示唆されているように感じる。

また、フレーズが合わさっているというのは少し意味深に思える。もちろん音楽的な観点からの盛り上がりもあるだろうけれど。


CD付属歌詞カードのヒント

なんと今回、CDの歌詞カードの最初に意味深な9行の文章がありまして。
本アルバムの曲数と対応してることから、それぞれの曲に宛てた文だと予想しているのです。

そこの文章を全部言っちゃうと購買意欲を下げてしまってよろしくないと思うのですが、考察する上ではかなり大事そうな文章であるため、単語一つだけ示したいと思います。

それは「斥候」です。

軍事的な用語ですね。これが出てきたことで、少し解釈に一つ背骨みたいなものが与えられた気がします。


まとめよう

ここまでは適当に書き連ねた感じだったので、ここらでまとめます。
なるべくここには「これはきっとそういうことだよね」という事柄を並べて、次で行う解釈の骨組みにしたい気持ちです。
そのため、自信のない考察はここには載せず、解釈の際になるべく拾っていくことにします。

  • 語り手には守ってくれる存在がいる。それは大規模で親しみのあるものだが、近くにはいない。その存在から、語り手は何かを頼まれている。
    Aメロ後半より。この存在としてはどこかの国家とか組織とかが想像される。

  • 過去の嫌な出来事によるトラウマが呼び起こされる。でも、信用できる味方がいる限りは大丈夫。
    Bメロ前半より。

  • 語り手は獣のように人を襲っている。過去の経験のフラッシュバックか現在のものかは不明。
    Bメロ後半より。

  • 語り手は今の状況から逃れたいと望む。しかし、それは叶わない。
    Cメロより。

  • 再びトラウマが甦る。味方さえもいなかったらこんなことが起こらないのにと思う。
    Bメロ前半(2回目)より。

  • 人に危害を加えていたことを忘れようとする。
    Bメロ後半(2回目)より。

  • 誰かと再会するが、別人だと言われる。
    Cメロ最後より。

  • またトラウマと向き合わなくてはならない生活に戻る。
    アウトロより。

  • キーワードに「斥候」がある。 CD付属歌詞カードより。


解釈をしてみる

以上を踏まえて、曲のストーリーについて自分勝手に間を埋めながら解釈してみる。

解釈1

「ぼく」は斥候として敵の中にいる。全ては味方(家族)のためだった。
敵の中枢にて作戦を実施する。それは人に危害を加えるような非人道的なことだ。彼はそういったことを何度も行なってきた。昔の嫌な記憶がフラッシュバックするが、仲間達のためだと押さえつけ、任務を遂行する。
作戦の合間に、自分は何をやっているのだろうと考えることがある。故郷に帰りたいと願うが、それが叶うことはない。
新しい任務が与えられた。内容は変わらない。でも、流石に疲れてきた。ずっと心の支えにしてきた同胞の存在がひどく重く感じる。だから、今回で終わらせることにした。武器を捨て、兵器と呼ばれた自分から元の自分に戻るのだ。味方からは見捨てられるだろう。それでも、彼は自分の忌まわしい過去を捨て去りたかった。
けれど、やはりそれも叶わなかった。彼の任務は続く。

解釈2

語り手は斥候だった。かつて同胞のために敵方へ潜入し、人に害を加えていた。だが、彼は決してそれを良いことだと思っていなかった。ひどく辛い記憶として刻まれたそれは、時折フラッシュバックして彼自身を傷つけた。
彼は心労に耐えかねた末、この現実は自分に起こっているものではないと思い込み、まるで夢を見ているように俯瞰的に捉えるようになった。夢の中の(実際には現実の)彼はまるで飢えた獣のように人を襲った。
だが、そんな手段も長く続かなかった。繰り返される任務によって同胞への疑いとともに心労は溜まっていき、ついには、自らの心を守るために記憶をなくそうとした。
そんな彼に話しかけたのは、新たに生まれたもう一つの人格だった。元の人格は眠りにつき、今度は別の人格がその負担に耐えることとなる。

うーん、やはり最初と最後の歌詞がうまく拾えていない気がする。

でも、解釈2の別人格が現れた、すなわち解離性障害が語り手に発症したというのは良いんじゃないだろうかと個人的には思っている。
ドッペルゲンガー感もあるし。
それから、夢心地で俯瞰的に自分の行動を見ているところが、少しカメラ・オブスキュラ要素を含んでいるんじゃないかと思う。 というのも、カメラ・オブスキュラはこのアルバムにおいて「実態」と「それを写した・真似したもの」の象徴として使われているのではないかと現在考えているからだ。


終わり

とりあえずDPPLGNGRはこんなところで締めさせてもらいます。
多分一周してカセットテープまでやった後は考え直したくなるんだろうなあ……

映像研に置いてかれたくない 22/07/21

久しぶりに友人と話して盛り上がったので、ついでにブログを更新しようかなと。

ついこないだ、「映像研には手を出すな!」の新刊が出ましたね。少し経ってから書店へ買いに行きました。

映像研の世界に浸るのも久々だなと認識しながらページをめくっていくと、今回は浅草氏に受難が。しかもその内容、最近自分も悩んだことあるー! って感じのことでして、頷きながら一緒に辛くなりながら読みました。


読了後、私の思考にあったのは焦りでした。

私は映像研を読み始めた時期くらいからTRPGのシナリオ制作を始め、またそれよりも前からある種の制作物とも考えられる科学論文作成をやっていました。そのことから、私が映像研に抱く感情は、ものを作る姿勢に対してのシンパシーが大半でした。

しかし、最近は趣味の制作から自覚的に離れており、そんな状態で映像研の熱量にあてられた結果、焦りを感じることとなりました。


これは手前勝手な話ですが、私は映像研を遠い世界の話だと思いたくないと思っています(実際、すでに色々な媒体でアニメを発表してる彼女らは実績的に遠いと言わざるを得ませんが)。

映像研を読んで「わーすごいな浅草さんたち」で終わらせたくないんです。 「くそっ、うまくいきやがって。俺も作りたいもん作って世に認められてえ」を心に抱きながら、今後とも映像研を購読していきたいものです。



しかして、こういう作品があって幸せですね。 あと作品を読んだ後にこんな与太話ができる友人にも感謝しなくては。

雑記 22/03/29

やっっべ、3月も終わりだ。

そろそろ新年度ということもあって、研究室では次期B4を迎えるための準備をやり始めている。片付けとか席の移動とか。

僕はといえば、2年間居座っていた席から離れることになった。人が増えてきたのもあって研究室としてもう一つ部屋を部屋を使えることになったので、ちょっとした心機一転と思ったのだ。

引っ越しはもう完了して新デスクに座っているわけだが、少し机が広くなっていい感じだ。書類とか読みかけ論文とかを放置するスペースが広くなっただけとも言うが、やはり作業机は広い方がいい。

雑記 22/03/27

音楽を聴く環境を整えるため、携帯音楽プレイヤーを買った。いわゆるウォークマン的なやつだ。なお、今頃はDigital Audio Player (DAP) と呼ぶらしい。

なぜ今の時代にDAPを買うのか、スマホでいいじゃないかと言われそうだが、音楽聴くための機器は分けて持っておきたかったのだ。そうしないと、作業中に音楽を聴くためと言いながらスマホをいじり始めてしまうのが常だったので。

あと僕がストリーミングよりもCD派だというのも関係しているか(ストリーミングもいいと思うけど何よりCDが欲しい人間)。


さて、密林にて乱立するレビューの木立に分け入りながら必死に探した結果、HIDIZSなるメーカーのAP80 Proというのを買うことにした。安すぎず高すぎない、まさにエントリーモデルという感じの品だ。

選ぶ際の基準は以下のように設定した:

  • タッチパネル操作(見た目がスマートだから)
  • 音量調節のダイヤルがある(なんかカッコいいから)
  • 機能は多くなくていい、Android搭載も不要(遊べてしまうから)
  • いい音で再生できる(せっかく買うならいい音質欲しい)

あと、プレイリストを作りやすいというのも気にしていたのだけど、そこまでの情報は大抵見つからなかったので、なんとかなるやろと後回しにした。

なお最終的には何となく見た目がいいからと決めたのは内緒だ。密林でか買うものを選ぶたびに最終的に面倒くさくなる現象は起きているので、どうやら僕は買い物が得意ではないらしい。面倒くささが一定を超えると買うのやめちゃうし。


今回はノリで購入ボタンを押すことに成功し、もうすでに届いてウッキウキで使用中だが現状不満はほぼない。密林のとあるレビューでも見たが、音楽を追加するたびに全曲スキャンしなくてはならないのが時間かかって面倒なくらいか。

あと強いて言うなら、今まで使っていた音楽プレイヤーアプリからエクスポートしたプレイリストファイルを追加できるみたいだったけど、うまくいかなかったし多分マニュアルにもやり方を書いていなかったので、何とかやり方を見つけたいところだ。