ピープル新譜の歌詞考えるぞ
今回からピープルの新譜:Camera Obscuraの歌詞を考えていきたいと思います。
考えるだけです。
それでも楽しいからいいのです。
注意事項
歌詞は(記事執筆段階では)波多野さんによって公開されています(該当ツイートへのリンク)。
よって、歌詞の確認は基本的にリンク先を見るか、お手持ちの音源に付いているものを確認いただけたらと思います。
この記事に歌詞を大量に書くことはいたしませんので、悪しからず。
今回の考察は「歌詞のフレーズは全てその表現でなくてはならない理由がある」という前提に立っています。
この記事は「歌詞の各フレーズに対する考察」→「自信のある考察のまとめ」→「解釈」の順で進みます。
最初の各フレーズ考察が書き散らしているだけな上に長いので、解釈だけ見たい方は下の方まで飛ばしてください。
自分が書いていて気持ちのいい表現のために一部断定的な文末表現になることがありますが、全ての文章の末尾には(※個人的意見です)が付いていると思ってください。
ではでは、まずはCamera Obscuraの開幕を告げる曲から。
1. DPPLGNGR
曲構成を雑に定義しておく
これは曲の部分部分に名前を付けて、後で言及しやすくする目的です。
自分はコード進行が全然分からない人間なので歌メロの感じで構成を書き出すと、大体次のような構成かと思います:
イントロ → Aメロ → Bメロ → Cメロ → 間奏(Cメロインスト) → Bメロ → Cメロ → アウトロ(Bメロ+Cメロのインスト)
これを踏まえて、以降は歌詞の表現を拾いながらふわふわと考えていきます。
イントロ
最初に聴こえる効果音
これは、部屋が開け放たれる音か?
部屋というと、やはりタイトルのカメラ・オブスキュラ(最初期のカメラ:暗い部屋に小さな穴を開けてピンホール現象を起こす)を想起せざるを得ない。
舞台は暗い部屋と、その外。そんな感じだろうかとぼんやり想像する。
だとしたら、語り手はどの位置から部屋を見ているのか。部屋の内か外か。
答えを明らかにする間も無く、次々と不穏な音が重なっていき、ヴォーカルの声がついに姿を現す。
Aメロ
「気にしてしまうよ/なぜあの視線を」
ざっと確認した感じだと、「視線」という言葉はこのアルバムの各所に現れる。
特に、明らかにDPPLGNGRと関係がありますという仕掛けの施された曲、M9のカセットテープにも「視線」が登場することは、この単語の重要さを物語っていると思う。
ただし、この表現がアルバムの根幹に関わるであろうことが予想できるだけに、この場ではあまり深く触れないことにしたい。
ただ分かっているのは、語り手が明確に他者の目を意識していること。
すなわち、この時点で「語り手」と「それ以外」という二つの存在が確認できることだ。
「守ってくれるの/巨大な構造が」
どう考えてもなんかいる。背後に、後ろ楯のような何かが。
しかも「構造」の部分を、波多野氏はあえて「かぞく」と歌い上げており、親密さを覗かせる。
背後から守ってくれていて、風をふかしてくれる、親しみのある何か。
表現が出てくるタイミングの後先からして、「視線」を送ってくる存在とは別物だろうと予想がつく。
この正体もまだよくわからないので置いておきたい。
しかし、「家族」に対して「構造」という言葉を当てるかね、普通。ハリーポッターの世界観なら絶対に「愛」なのだろうが。
「風が背中を叩いた」
上に続く一節である。
これは恐らく「巨大な構造」が何かを唆していることを表すと思うが、その上で「風」という表現に注目したい。
ただ唆しているのであれば、もっと物質的で想像しやすいような表現を使って「手が背中を押した」みたいなのでもいいはずだ。
だが波多野氏は「風」という表現を使った。「風」は「手」なんかと比べて形を持たない曖昧な存在だが、「どこからか吹いてきている」という発生源へと考えを及ばせる効果を持つと考える。しかも、その源とは距離がありそうに感じる。
したがって、語り手は後ろ盾から遠く離れたところにいる、と読むことができるだろう。
ここから、曲調は一変する。神聖にも感じた空気感がダークなものへと移り変わる。
Bメロ(1回目)
「おなじみのトラウマ、平気さ」
トラウマは過去の経験に痰を発する心的外傷である。
詰まるところ、語り手には何かしらの忘れ難い過去があり、現在それを刺激されているらしい。
しかも、それは最早「おなじみの」ことになっている。
だが、それを語り手は「平気」だと言った。
「敵も味方もいない、そんな世界はない」
平気だと言い張る理由をこの一節に委ねるとしたら、この表現は「世界には敵もいるけど味方だっている、だからトラウマがあっても大丈夫」みたいに読めるかもしれない。
そうなると、語り手は敵に関係するトラウマを持っており、一方で味方のおかげでそのトラウマを過剰に気にせずいられている、と解釈することができるだろう。
出ました。本アルバムきっての存在感のある名詞、「ツキノワグマ」
とりあえず、「ぼく」という一人称が出てきたので、これからは語り手のことを「彼」とも呼称することにしよう。
さて、彼はここで自らを獣に例えたわけだが、湧き出る疑問として、
- なぜ獣なのか、強い存在なら銃やナイフなどではいけないか
- なぜツキノワグマ(クマ)なのか、強そうな動物ならライオンとかではだめか
あたりが存在する。
色々考えたが、まず前者について、波多野氏は語り手に宿った「野生」を表したかったと思っている。
「野生」はこのアルバムの他の曲にも登場するし、Talky Organsには類似の単語として「野蛮」をタイトルに含む曲が存在する。
すなわち、自分は今、理性を失ってしまったことを言いたいのだと考える。
当然、人としての理性がない状態で、銃やナイフなんていう人が作ったお上品な武器を名乗ることはできない。
次になぜクマなのかだが、比較的に身近な野生動物の中でありなおかつ「食べるために人を襲う」という印象が存在しており、すなわち積極的に人を害そうとする生物であることが重要なのではないか。
そうなると、「彼は今、好んで人を襲う獣になってしまったと思っている」という解釈をすることも自然だろう。
ちなみに、なぜヒグマじゃないのかも少し考えたが、ツキノワグマの方が語呂がいいからかなという認識で手打ちとしている。
「山を越え、森を抜け」
先ほど自らをツキノワグマに例えたからか、獣目線の描写となっている。
しかもその後には「景色を引き裂く」とあり、彼が何かしら人を害したことが示唆されている。
Cメロ(1回目)
「ここはどこだろう」
ここで曲は展開する。
空間を塗りつぶすような激情は鳴りを潜め、代わりに澄んだピアノが印象的に響く。
それと同時に伝えられるのは、彼の困惑だ。
上で「巨大な構造(家族)」と遠く離れた場所にいるのでは」と考えた。
その思考の上に立つと、彼はこの段階ではどこだか分からない場所にいるらしい。
分からない、というよりは「忘れてしまった」という可能性ももちろんある。
「帰りたいよ/もっといい世界へ」
彼は今いる場所から帰りたいと望む。その帰る先は、もっといい世界だからと。
「トラウマ」と向き合うことが「おなじみ」のこととなっていることからも、現在の彼を取り巻く環境が良くないものであったことは間違いない。
だから、少しでもましな状況になることを切に望んでいるらしい。
「帰りたい」という表現も注目できる。
つまり、語り手は帰るべき場所から離れ、意に沿わぬことをし続けているということが示唆されている。
一方で、「帰りたい」というフレーズはリフレインしながら徐々に減衰していっており、それが叶ったと印象は薄く感じる。
Bメロ(2回目)
Cメロの流れを汲んだ間奏があり、それを突き破るような轟音とともに再びBメロが始まる。
スティグマという言葉を調べると、差別や偏見と出てくる。
つまり、彼は前々からずっと周囲の人から何か偏見を押し付けられているのではないかと予想できる。
だが、これについても彼は「平気」だと言う。その理由は……
「まるでビデオゲーム 慣れ親しんだ世界だな」
ビデオゲームのように慣れ親しんだ世界だから、偏見があっても平気だ、とこのように読むことができるだろう。
ここの、ビデオゲームのように慣れ親しんだ世界とはどういうことだろうか。
ゲームというものは、プレイヤーが与えられた選択肢から判断し結果を得るという体験の連続を楽しむものである。この点で「世界観」を我々と共有する他の媒体である小説や映画とは差異がある。
さらに言うと、ゲームにはリセットが存在し、「選択肢による結果の違いを見るため、何度も繰り返すことがある」のも一考の余地を持つ。
これらのことから、私は「ゲームのように慣れ親しんだ世界」とは「何度も何度も遭遇してきた場面」を指しているのではないかと考えている。
上の「スティグマ」と合わせて想像すると、彼は周囲から嫌なレッテルを貼られたことが何度もあり、その度に何か行動してきたのではないかと思う。
「敵も味方もいなければよかった」
これは最初のBメロと同様に「おなじみのトラウマ」に呼応する一節である。しかし、その様相は異なる。
1回目では敵も味方も存在すると歌っており、私は「味方がいるからトラウマがあっても平気」という意味にとっていた。
しかし、この一節では味方の存在すら歓迎しないことを述べている。
これは、Cメロと間奏を経由する間に語り手に何か起きて、考えが変わったのかなと思っている。
つまり、最初のBメロと2回目との間では時間が経過していると考えている。
味方もいらないと考えるようになったことから、味方と思っていた人に裏切られたとか、味方がこんなことを頼むのがそもそもいけないんだとか思うようになったのかもしれない。
「汚れた両手は切り離して 棄てて おしまい」
「棄ててしまいなさい」なのか、それとも「棄てたら、それでお仕舞い」なのか。意味深な空白もあるし、どちらもあるのかもしれない。
次の表現も合わせて、語り手が何かしらしでかした事実をなくしてしまおう、ということだと考えている。
「抹消されるだろう 記録は/弾丸を込め、花を踏み、引き裂く景色は」
記録の消去というと、「ビデオゲーム」におけるセーブデータの消去を想起する。
また、「弾丸を込め、〜」も「抹消されるだろう」にかかっていると仮定するなら、人を害したときの記憶こそが抹消されるものなのではないかと考えられる。
「弾丸を込め」は明らかに人を描写している。だが、この描写は1回目のBメロにはなかった。
この段階で、語り手は自らの行為から目を逸らすのをやめ、現実を受け入れていると見れる。
Cメロ(2回目)
「また会えたね/別人だよ」
これが一番分からないかもしれない。
とりあえず、「また会えたね」と「別人だよ」では声色が違っているので、これらのセリフは別々の人物が発していると考えられ、語り手以外に誰かしらが現れたことが分かる。
それから、「また会えたね」と言った方は知り合いだと思って話しかけているが、言われた方はそれを否定している。
あと興味深いのは、この「また会えたね」からは冒頭〜Aメロで聞いたフレーズに戻っていることであり、何かしらの関係が示唆されることである。
場面が変わったのかとも思ったが、歌詞を見ると「また会えたね」はその前のフレーズの直後にあり「別人だよ」は1行空いていることから、それほど大きな変化があったことは考えにくい(大きな変化だったら「また会えたね」の前にも空白行を入れるだろう)。
だから、時間軸的なものがAメロのそれと一致しているのかなと考えている。
アウトロ
BメロとCメロが合わさったようなフレーズを奏でてフィナーレへと向かう。
なんとなく、BやCで語られた出来事が今後も繰り返されることが示唆されているように感じる。
また、フレーズが合わさっているというのは少し意味深に思える。もちろん音楽的な観点からの盛り上がりもあるだろうけれど。
CD付属歌詞カードのヒント
なんと今回、CDの歌詞カードの最初に意味深な9行の文章がありまして。
本アルバムの曲数と対応してることから、それぞれの曲に宛てた文だと予想しているのです。
そこの文章を全部言っちゃうと購買意欲を下げてしまってよろしくないと思うのですが、考察する上ではかなり大事そうな文章であるため、単語一つだけ示したいと思います。
それは「斥候」です。
軍事的な用語ですね。これが出てきたことで、少し解釈に一つ背骨みたいなものが与えられた気がします。
まとめよう
ここまでは適当に書き連ねた感じだったので、ここらでまとめます。
なるべくここには「これはきっとそういうことだよね」という事柄を並べて、次で行う解釈の骨組みにしたい気持ちです。
そのため、自信のない考察はここには載せず、解釈の際になるべく拾っていくことにします。
語り手には守ってくれる存在がいる。それは大規模で親しみのあるものだが、近くにはいない。その存在から、語り手は何かを頼まれている。
Aメロ後半より。この存在としてはどこかの国家とか組織とかが想像される。
過去の嫌な出来事によるトラウマが呼び起こされる。でも、信用できる味方がいる限りは大丈夫。
Bメロ前半より。
語り手は獣のように人を襲っている。過去の経験のフラッシュバックか現在のものかは不明。
Bメロ後半より。
語り手は今の状況から逃れたいと望む。しかし、それは叶わない。
Cメロより。
再びトラウマが甦る。味方さえもいなかったらこんなことが起こらないのにと思う。
Bメロ前半(2回目)より。
人に危害を加えていたことを忘れようとする。
Bメロ後半(2回目)より。
誰かと再会するが、別人だと言われる。
Cメロ最後より。
またトラウマと向き合わなくてはならない生活に戻る。
アウトロより。
キーワードに「斥候」がある。
CD付属歌詞カードより。
解釈をしてみる
以上を踏まえて、曲のストーリーについて自分勝手に間を埋めながら解釈してみる。
解釈1
「ぼく」は斥候として敵の中にいる。全ては味方(家族)のためだった。
敵の中枢にて作戦を実施する。それは人に危害を加えるような非人道的なことだ。彼はそういったことを何度も行なってきた。昔の嫌な記憶がフラッシュバックするが、仲間達のためだと押さえつけ、任務を遂行する。
作戦の合間に、自分は何をやっているのだろうと考えることがある。故郷に帰りたいと願うが、それが叶うことはない。
新しい任務が与えられた。内容は変わらない。でも、流石に疲れてきた。ずっと心の支えにしてきた同胞の存在がひどく重く感じる。だから、今回で終わらせることにした。武器を捨て、兵器と呼ばれた自分から元の自分に戻るのだ。味方からは見捨てられるだろう。それでも、彼は自分の忌まわしい過去を捨て去りたかった。
けれど、やはりそれも叶わなかった。彼の任務は続く。
解釈2
語り手は斥候だった。かつて同胞のために敵方へ潜入し、人に害を加えていた。だが、彼は決してそれを良いことだと思っていなかった。ひどく辛い記憶として刻まれたそれは、時折フラッシュバックして彼自身を傷つけた。
彼は心労に耐えかねた末、この現実は自分に起こっているものではないと思い込み、まるで夢を見ているように俯瞰的に捉えるようになった。夢の中の(実際には現実の)彼はまるで飢えた獣のように人を襲った。
だが、そんな手段も長く続かなかった。繰り返される任務によって同胞への疑いとともに心労は溜まっていき、ついには、自らの心を守るために記憶をなくそうとした。
そんな彼に話しかけたのは、新たに生まれたもう一つの人格だった。元の人格は眠りにつき、今度は別の人格がその負担に耐えることとなる。
うーん、やはり最初と最後の歌詞がうまく拾えていない気がする。
でも、解釈2の別人格が現れた、すなわち解離性障害が語り手に発症したというのは良いんじゃないだろうかと個人的には思っている。
ドッペルゲンガー感もあるし。
それから、夢心地で俯瞰的に自分の行動を見ているところが、少しカメラ・オブスキュラ要素を含んでいるんじゃないかと思う。
というのも、カメラ・オブスキュラはこのアルバムにおいて「実態」と「それを写した・真似したもの」の象徴として使われているのではないかと現在考えているからだ。
終わり
とりあえずDPPLGNGRはこんなところで締めさせてもらいます。
多分一周してカセットテープまでやった後は考え直したくなるんだろうなあ……